〈第53回ベネツィア・ビエンナーレ〉その2
圧巻のやなぎみわ、そして交錯する生と死、希望と不安
文●石川健次(東京工芸大学芸術学部准教授)
圧巻のやなぎみわ、そして交錯する生と死、希望と不安
文●石川健次(東京工芸大学芸術学部准教授)
■相反する2つの言葉がそこかしこから聞こえてくる
次に、イタリア館。ジャルディーニの旧イタリア館は今回、ビエンナーレ館として生まれ変わった。そのため、イタリア館は、常設館を持たない国々、たとえば中国などと同様、アルセナーレに間借りしている格好だ。入り口に入るとすぐ、サンドロ・キア(1946~)の新作が並ぶ。言うまでもなく、ニュー・ペインティング的な動向と足並みをそろえたイタリアのトランス・アヴァンギャルディアの代表的存在だ。
キアに続いて、ジャン・マルコ・モンテサノ(1949~)、ルカ・ピニャテリ(1962~)、ダニエレ・ガリアーノ(1961~)、ニコラ・ヴェルラート(1965~)ら具象的傾向のペインティングがそろう。さしずめ、トランス・アヴァンギャルディア以後のイタリア具象絵画の系譜とでも言えるだろうか。
絵画の力作に続けて、光のインスタレーションで知られるマルコ・ロドラ(1955~)、そしてバレリオ・ベルッティ(1977~)のかわいらしい女の子が椅子の上で戯れるアニメと出会う。意図的に稚拙な風情に仕上げられたアニメは、描かれた女の子の純真で無垢な姿がなにより印象的だが、メルヘンチックな絵柄と同様に音楽もメルヘンの世界へ見る側をいざなう効果的な脇役を演じている。だが、ふと視線を次へと走らせると、アロン・デメッツ(1972~)の上半身が焼けただれたような特異な人体彫刻が目に飛び込む。メルヘンの世界から一転、破壊や不安が暴力的に肉迫してくる。多彩な魅力は、さすがホスト国としてのサービス精神の現れとも言えるだろうか。
バレリオ・ベルッティ作品
アルセナーレでイタリア館に隣接しているのは、中国館だ。ここでは、ファン・リジュン(1963~)に注目した。言うまでもなく、天安門事件以後の中国現代アートを象徴するシニカル・リアリズムの旗手である。だが、出品作は、いつものあの皮肉な笑みを浮かべたスキンヘッドの男性ではなく、おそらく旧造船所の施設をそのまま利用したトンネル状の作品だ。細長いトンネルを覗き込むと、遠くに出口が見える。中国、長いトンネルとくれば、さまざまな想像が可能だろう。天安門事件を経た中国の現代作家の作品であればこそ、託された思いは容易に受け取れよう。それだけに、やや拍子抜けの感も否めないのは確かだが......。むしろ、そのときはその程度の感想だったのだが、日々さまざまな作品に触れ、とりわけ別のある館の作品に触れるや、このファン・リジュンの作品と合わせて強い印象が膨らむのを感じた。それについては、その別の館について書く際に改めて触れたい。
さて、ジャルディーニに戻って、ヴェネズエラ館ではモンドリアンの作品のパロディがおもしろかった。垂直、水平の厳格な作品が、その厳格さ、窮屈さから逃れようとでもするかのようにゆがみ、揺れる映像作品なのだが、過剰な造形主義やモダニズム、あるいはあらゆる過去の思潮、動向から自由に、という思いが込められてもいるのだろう。政治とも無縁ではないかもしれない。ロシア館では、3人の作品が並んだが、スポーツ会場のスタジアムをほうふつとさせる空間に響く大歓声が、そのクライマックスで一瞬のうちにかき消され、すべてが真っ白な光のなかへ雲散霧消してゆくように映る作品が楽しい。クライマックスは数分に一度訪れるが、どうも劇的な瞬間を感じないまま会場を去ってしまう人も、なかにはいるようだ。
韓国館は、ヘギュ・ヤン(1971~)という新鋭が、ブラインドなど日常の品々を用いたインスタレーションを展開し、カナダ館では、マーク・ルイス(1958~)が3つのスクリーンに映画のワンシーンのような映像を再構成して、平凡な日常を切り取る。フランス館では、2003年の越後妻有アートトリエンナーレに出品していたクロード・レヴェック(1953~)が登場した。強烈な光や衝撃的な音などを素材に、サイトスペシフィックな作品で知られる作家だ。会場には、檻のような柵が張り巡らされ、そのどん詰まりに広がる闇のなかに、旗が揺れる。国家へ、国民へ忍び寄る不安や危機、あるいはひとつの政治形態の終焉、革命前夜などをほうふつとさせる。
へギュ・ヤン作品
オーストラリア館は、ショーン・グラッドウェル(1972~)。映像作家で、しばしばスケートボードやブレイクダンス、ヒップホップなどのサブカルチャーを通して、現代を批判的に見つめる手法のようだ。スローモーションを効果的に使用するらしく、出品作でも随所にスローモーションが用いられていた。車にひかれて死んだらしいカンガルーを抱きかかえ、路上を歩き回るライダーの姿は、オーストラリアの大自然と発展の歪みをほうふつとさせるほか、個人的にはたった一度のオーストラリア訪問を思い起こさせ、なつかしい(どうでもいいことだが......)。ところで、オーストラリアといえば、ジャルディーニでの展示以外にも、市内の別会場にも展示スペースを設けていた。そこに並んでいたオーストラリア在住の日本人作家、ケン・ヨネタニの作品は、会場全体がブルーに染められた空間に、サンゴ礁などが広がる真っ白な海底を現出させたインスタレーションだ。最初、白いのは塩だろうと思ったが、実は砂糖だった。「海→塩」という短絡的な想像は見事に裏切られたわけだが、砂糖というのもピンとこない。もちろん、何か意図があるのだろうが・・・。
ケン・ヨネタニ作品
デンマーク館と北欧館(フィンランド・ノルウェー、スェーデン)は今回、総勢24人による共同テーマでの作品だ。デンマーク館は架空の不動産物件として売り出し中、北欧館はあるコレクターの家という設定で、館内は普通の家のように家具が並ぶほか、随所に作品も並べられている。おかしいのは、コレクターの家の前にあるプールには溺死体が浮かんでいて、実はこの人がコレクター本人というシチュエーションだ。何やら真夏の白昼夢を見ているような印象だが、評判は悪くない。
北欧館のプールに浮かぶ"溺死体"
イスラエル館は、1937年にテルアビブで生まれ、作家、教育者、美術や音楽の評論家など多彩な活躍をしたラフィ・ラビエの絵画が並ぶ。2007年に亡くなっているが、カラフルな色面や線描が生き生きと脈打つ力作だ。ウルグアイ館では、ジャングルの動物の鳴き声をまねたパブロ・ウリベ(1962~)の映像がユニークだ。
スクリーンは2つあって、ウリベ本人が向き合うように2つのスクリーンで鳴きマネを披露しているのだが、てっきり映っているウリベ本人が声を出していると思っていた。だが、帰国後、学生に撮影してきた映像を見せると、ウリベはまねているようで、実は聞こえている動物の声は本物なのでは?と疑問符を突き付けられた。いったいどうなのだろう。
ギリシャ館は、現在はアメリカで活躍中の鬼才、ルーカス・サマラス(1936~)だ。オブジェや絵画、彫刻や写真などさまざまなメディアを通して、一貫して自分自身に言及し続けている。出品作の映像作品でも、コーヒーを飲み、食事をする自身がカラフルに描かれる。ルーマニア館では、政治の話題で盛り上がるパペット人形劇に時間を忘れ、ポーランド館ではクシュシトフ・ウディチコ(1943~)のインスタレーション大作に見入った。パブリックな建物や記念碑に映像を投影する作品で知られるが、今回はガラス越しにシルエットだけが見える作品だ。立ち話をしていたり、窓ガラスをふいていたりなどさまざまだが、移民問題など社会的なメッセージ性が色濃い作品のようだ。
クシュシトフ・ウディチコ作品
エジプト館は、異なる作家(2人)による絵画と彫刻の展示で形式的には真新しさはないが、魅力には満ちあふれている。主題は、いずれも人間だ。彫刻は、ヤシの葉(の繊維?)で編んだひもを素材に、さまざまな人体像がつくられる。想像だが、細い棒状の鉄で組んだ原型にひもをぐるぐる巻きながら、自在な造形へとつくってゆくのだろう。形が描く量感や力感、躍動感はもちろん、単体でも、また群像でも多様な物語が演じられ、見飽きることがない。3人がそれぞれ向き合うように内向きに座っている姿は、「3人寄れば文殊の知恵」どころか、迷い、悩む私たち、あるいは難問山積の世界をほうふつとさせる。自転車に乗って、頭上に荷物を抱えた姿はユーモアに満ち、思わず笑みがこぼれた。絵画も、シンプルな造形ながら、独特な色づかいで彫刻に負けず劣らず新鮮だ。形式は伝統的でも、強い個性、言い換えれば、というよりもむしろ際立つ異質性が、見る側の視線をわしづかみする。
エジプト館展示風景
セルビア館(旧ユーゴスラビア館)は、映像インスタレーションである。2人の作家が、それぞれ大がかりなインスタレーション作品を展示している。一方は、人の髪の毛を大量に集め、板状に圧縮したうえで会場に重ねて並べるほか、収集から圧縮までの過程を記録した映像を流す。別の作品では、平和を願って口ずさんだ歌が、ヘッドホンから聞こえてくる。会場奥に置かれた大きなスクリーンには、歌っている本人らしいさまざまな人たちが映し出される。見る側は、ヘッドホンを耳にあてて歌に聞き入りながら、目の前のスクリーンを眺める。紛争を経た国、人たちの思いがこもる。
オランダ館は、フィオナ・タン(1966~)だ。インドネシアで、中国系インドネシア人とオーストラリア人を両親に生まれたフィオナ・タンは、母国でおこった反中国人暴動のために離散した家族を追ったドキュメンタリー・フィルムで名をはせた。ドキュメンタリーとフィクションの間を行き交いながら制作される映像は、説得力と同時にファンタンジーにもあふれて見える。出品作は、2つのスクリーンに老若2人の女性が登場し、それぞれの日常を淡々と描く。入浴シーンでは、老いと若さが残酷なまでに悲痛なコントラストを描き出す。各シーンの合い間には、最初は緩やかな流れ、次第に強く、激しくうねる水の流れが挿入され、まるで人生の起伏を暗示するかのようだ。生まれ、老い、死んでゆく万物への崇敬と、どこか諦念にも似た切ない響きが、映像を見終えた後にまるで残り香のように漂う。
スペイン館は、マイケル・バルセロ(1957~)の重厚な絵肌の絵画。起伏の激しいマチエールに彩られるゴリラの絵が、ハイテクな印象がみなぎるビエンナーレの空間にあると、不思議とすがすがしい。スーザン・ソンタグは、写真は映像のアンソロジーと呼んだが、そう呼んだ1970年代当時、写真はまだ"もの"として存在していた。今や写真をはじめ映像はもちろん、多くの作品がただイメージのアンソロジーとして存在し、"もの"として実感しにくくなった。"もの"に出会うと、ホッと安堵の気持ちがこみ上げるのは、自分も年齢を重ねているからなのかもしれない。
ジャルディーニを出て、市内に点在する架設の各国パビリオンのなかからも、いくつかを紹介したい。モロッコ館では、人の歯をモチーフにした絵画が並んだ。実は、このところ歯茎が痛み、今回のビエンナーレ訪問にも歯医者からもらった薬を持参していた。出発前、「気圧が変わると痛むかもしれません」などと脅されていたので、相応の覚悟はしていたが、幸いにも痛まなかった。ワインをがぶ飲みしていたので、麻痺していたのかもしれない。ともかく、私的には、歯は重大関心事で、まさに歯を真正面から取り上げた絵画にも否応なく興味をひかれた。ただ、そんな事情はなくても、それらの絵画は十分に楽しく、印象にも残った。
アルセンチン館は、ブエノスアイレス在住のベテラン画家、ルイス・フェリペ(1933~)の絵画だ。壁の端から端までを埋める文字通りの大作と、小さな部分がいくつも展示された絵画インスタレーション的な大作の2点だ。カラフルな色彩が、目にまぶしい。
リトアニア館に並ぶのは、リトアニア生まれで、現在はニューヨークを拠点に活動するジルヴィナス・ケンピナス(1969~)の巨大な立体作品である。ビデオのテープを素材に、細長いトンネルをつくった。人が1人、トンネルのなかを歩くことができる。風に揺れるトンネルのなかを、私も歩いてみた。繊細なビデオテープには、触ることはもちろんできない。小刻みに揺れる細く、黒い、まっすぐな軌跡は、光を浴びてところどころ鈍くきらめく。トンネルのなかから、黒い軌跡越しにのぞく外の景色は、明るく、躍動的に見えた。閉鎖的な空間に身を置いているという思いが、知らず知らずのうちに顔をのぞかせたのだろうか。やがて、出口。入り口があれば、出口があるのは当たり前だろう。だが、その出口が見えない、永遠に閉じられたまま、だとすれば、その不安はいかばかりだろう。永遠に消えない閉塞感のなかにがんじがらめになった自分を想像すると、一刻も早くそこから出たいという衝動にもかられた。吹けば飛ぶような、もろいテープの囲いに覆われているだけに過ぎないのに・・・。中国館でのファン・リジュンの作品を思い出す。いずれもトンネルという形をとりながら、入り口とともに出口もちゃんと用意されていた。入り口からのぞく出口は、なんだか安どの気持ちを呼び起こす。長いトンネルの先には、必ず出口があると信じる、そう思えるだけで、安らかな気持ちになれた。
ジルヴィナス・ケンピナス作品
不安と希望、たとえばこの相反する2つの言葉が、会場を巡るにつれて、そこかしこから聞こえてくる気がした。やなぎみわの作品にひきずられるように、死や不安は脳裏から消え去ることはなかった。でも一方で、安どや希望も封印されるどころか、随所で異彩を、神々しいまでの輝きを放ってもいたのである。その思いは、各国パビリオンが並ぶジャルディーニから、さらに企画展会場のアルセナーレへと目を転じて以後も消え去ることはなかった。むしろ今回のビエンナーレの核心ではないのかと、いっそう強く、大きく膨らみ続けた。
*撮影はすべて石川健次