〈モーリス・ルイス 秘密の色層〉
モーリス・ルイスという個性
文●大川 祐 美術家
モーリス・ルイスという個性
文●大川 祐 美術家
■謎に包まれた作家生活
あまり天気は良くなかったが、かねてから行きたかった美術館のひとつである川村記念美術館へモーリス・ルイス展に行ってきた。行くという決心はしたものの、大田区在住の私にとって千葉県佐倉市にある美術館への片道2時間半の道のりに気後れもないわけではなかった。しかし都会の雑踏から離れ静かなところで頭をアートで満たしたい欲求もあり、美術館の会場へと足を運んだ。
会場は3部構成になっており、10年に満たない作品歴に600点以上の作品を残した中から15点が展示された。展示数は少なかったが、ひとつの作品が横幅3m以上あるので空間的に仕方がないのである。
モーリス・ルイスは1912年アメリカのメリーランド州バルチモアに生まれ、その後ワシントンDCに移り教師であったマルセラと結婚し、彼女に生活を支えて貰いながら作品制作に没頭し、50歳の誕生日を前に自身の成功を見ずに肺ガンで亡くなってしまう。
ルイスはその作家生活の中で、マルセラが仕事に出て行った後ダイニングルームを片付け、4.3m×3.7mの部屋をアトリエとして使っていた。そして彼女が帰ってくるころには綺麗に元のダイニングルームに戻していて、いままで絵を描いていたようには彼女は見えなかったという。しかも作品は横幅3mを越す大作ばかり。中には5mを越す作品もあったが、どうやって制作したのかいまだにわかっていない。これは作品自体とは関係ない話だが事実として面白い。他にもルイスはアトリエに人を入れず、制作メモや書き残した文章などがないことから彼がどのように考え描いたのか、小さな部屋で大作をどのように描いたのかが謎に包まれている。
■体験する絵画
そんな謎めいたルイスだが、作品自体は明快である。明快といっても技法的には議論は尽きず、アートとしても示唆に富んだものである。
技法はステイニングといって、下地処理のしていない生のキャンバスに希釈剤で薄く延ばしたアクリル絵の具を染み込まして画面を作っていくというもの。きっかけは、当時ヘレン・フランケンサーラーという画家の作品を彼女のアトリエで見て、ステイニングの技法を使い対象を描かずに、色彩だけで成り立つ抽象絵画に衝撃を受けたことから始まっている。このステイニングという技法こそが、ルイスの芸術をその後支えていく。美術館でもこの技法についての説明に力を注いでいた。
この技法そのものから作品が生み出された印象のあるルイスだが、それは説明的な対象を描かず、生のキャンバス地に絵の具を垂れ流すという行為から繰り出される抽象作品によって、絵画が現実や空想の映し絵とならずに絵画は絵画であるという自律を目指したのである。絵画がその自律を目指すというのは、当時の現代絵画の主要なテーマでもあった。
実際ルイスの色彩のみで構成された巨大な画面は、何かが描いてあることをイメージすることは困難であり、純粋に色の重なりや絵の具を垂れ流したときにできる自然な形に目がいく。
1950年頃から現代絵画はアメリカを中心に巨大な画面を作り、そこに絵を見る人を立たせて絵画を体験させることによりアートが成立することが関心の中心になっていた。ルイスも、おそらく作品を見る人の体験を想像しながら描いていたと思われる。技法に目が行くルイスだが、あえて今回私は技法そのものよりルイスの見たかった、あるいは見せたかったイメージとは何か、をわずかな展示作品の中からではあるが考えてみたい。
■さ迷わされる視線
ステイニング技法を使い初期に描かれた《ヴェール》シリーズ(写真、ダレット・シン)。これは作品の見た目が、カーテンのヴェールのように見えることから後からつけられた。
これらの作品は横幅が3m以上もあり、しかも画面の中心に目に止まるものが何も描かれていない。あえて言えば垂直に切り立つ壁か、絵の具の垂れ流しから滝のようにも見える。また作家の何らかのイメージをそこから読み取ろうとしても、普通の画家のように筆で描かれていないため、絵の具の垂れ流しとキャンバスに染み込んだ絵の具の自然現象に目が行ってしまう。
これはルイスが仕組んだコンセプトなのだが、普段何か目的物を見ようとする意識は呆然とし、見ることを最初からやり直さなければならなくなる。
特に《ヴェール》シリーズに特徴的なのは、画面ぎりぎりまで染み込みの形が描かれ、周りにわずかな余白が残されていることである。また余白があることにより、染み込みの物質性が高められている。染み込みは最初の段階で彩度の高い色彩が重ねられ、一番後に茶系の色で全体の形を覆いながら輪郭に沿ってわずかに彩度の高い色彩を残している。
このことよって画面の真ん中はいかにも最初に塗り重ねた色彩を隠しているようにも見え、構造として真ん中にあるものがないことになってしまっている(この構造は、後の《アンファールド》シリーズに受け継がれていく)。しかし、形の輪郭には残された彩度の高い色が顔をのぞかせている。
このような経験の中で、我々に知覚の転倒が起こってくる。それは図と地の関係である。普段スナップ写真を撮る時など、必ず撮りたいものを真ん中にとらえる。そして、意識の周辺としてまわりが地となる。これが通常の意識であるが、ルイスの場合真ん中に画面いっぱい形が認識されるのに、それが一旦空白状態に置かれてしまうのである。そのあと視線は、残された輪郭の色彩に目が行ったり、真ん中の茫洋とした色彩に目が行ったりしてさ迷うことになる。これはルイスが「見るということに挑戦しなければならない」といっていたことを表しているといえるだろう。
「ダレット・シン」 1958年 アクリル、カンヴァス 218×368cm
■染み込ますという現実の行為へ意識を向かわせる
ルイスは《ヴェール》シリーズで個展を開き、アトリエから作品を出して初めて客観的に作品を眺めることになる。なぜなら前述したように、狭い彼のアトリエでは作品を並べて見ることは不可能であっただろうから。
その後彼は、移行期の試行錯誤を経て《アンファールド》シリーズ(写真、オミクロン)に着手する。これも前シリーズと同じく、横幅のある巨大な画面が特徴的である(横幅5mのものもある)。巨大な横幅のある画面にこだわったのは、見る人が瞬時に画面全体を把握(イメージ化)できないよう考えたのではないだろうかと私は考えている。
ルイスは《ヴェール》シリーズに見られた色彩の重なりをやめ、原色に近い色を画面の横から色の帯を並べるように斜めに垂れ流す手法へと到達した。色の帯は薄く溶かれているにもかかわらず、色が互いに滲まないようになっている。これはルイスが絵の具をかなりコントロールしていることの証として受け止められる。
また画面の両端から斜めに垂れ流すことによって、真ん中に台形を逆さにしたような空間が生まれることになる。これは《ヴェール》シリーズで見られた真ん中の形が、《アンファールド》シリーズでは絵の具の付いていない空白の部分で繰り返されているのがわかる。ここでも観客は、真ん中に見るはずのモチーフがはぐらかされている。ルイスはここで画面の空白という概念に、より積極的なイメージを持っていたと思われる。一種の思考停止状態を誘うのである。
そして図と地の転倒というモチーフが、ここでも表れている。私たちが通常図と地の関係に従って見ている習慣とは、先の写真のことで触れた意識の問題であるが、もう少し補足すればキャンバスという物体=地(絵画)がまず展示された空間に認知されて、そこに描かれている図を事後的に認識するという安定した構造がある。
ルイスによる図と地の転倒とは、この描かれている図(イメージ)の安定感を剥ぎ取りキャンバスというイリュージョン(キャンバスなら絵に見えてしまうこと)を一旦脇において、ルイスが行った絵の具を染み込ますという現実の行為に人々の意識を持っていこうとする。そして、それでも人は結局キャンバスにイリュージョンを見てしまうということによってイリュージョンとは何か、絵画とは何かをそこで問いかけているのである。
「オミクロン」 1960年 アクリル、キャンバス 262.3×412.1cm
■即物的な表現から感じる個性
結果として最後のシリーズ(このシリーズの後亡くなってしまう)となってしまったのだが、ルイスは《ストライプ》シリーズ(写真、パーテション)を始める。ここで彼は完全にステイニング(染み込み)をコントロールし、色の帯が隣接しながらお互いに滲まない画面を作り出した。文字通りストライプが描かれているだけのミニマルな画面である。しかし我々は何かをそこに見ようとする。
「パーテション」 1962年 アクリル、キャンバス 259.7×44.5cm
以前試みた画面の真ん中に空白を作るという構造は、ここでは形を変え細長い画面に沿って同型のストライプを作ることにより視線は真ん中とその周辺という常識的な知覚を失い、ストライプの即物性に意識が持っていかれる。
不思議なイリュージョンである。ここでも思考が停止してしまう。表現の内容は切り詰められ、ストライプの背後に何か意味があるというのではなくただ縦や横に線がすーっと引かれている。執拗に偶然性が省かれ、線はほぼ完全にコントロールされている。また、いままでの絵の具を垂らすという技法から線を描くという技法に変わってきている。
これは何を意味するのか。描くという行為から生まれる表現性を避けてきたルイスだが、このシリーズでは描きながらも即物的な表現ができることを実証したといってよい。しかし我々は、これらの即物的な表現からなぜかルイスという強烈な個性を感じてしまう。表現がシンプルになればなるほど、ルイスの絵の具をコントロールする意志が強調されるからである。
私はステイニングという技法にこだわってきたルイスの技法に対する自信の表れを見る。
何も描かれていない余白を見てみる。《ストライプ》シリーズの何も描かれていない地は、図のストライプと同等の価値を与えられている。あたかもお互いの形が、お互いを支えあっているように見える。その図と地の一体感から作品は物体化し、現実空間に存在しようとする。
唐突だが、ルイスはこの《ストライプ》シリーズに、何か絶対的な意味を持たせようとしたのではないだろうか。何かそれであって、それでしかないような何か。染み込みの技法にこだわり続け、キャンバスと絵の具に一体感を求めてきたルイス。描かれた行為による時間的な広がりのある空間がありながら、一方で絶対的な静止を伴う存在そのものも同時に感じてしまう。
短い作品遍歴の中であわただしく駆け抜けたルイス。
だが、本当のところルイスは何を最晩年のシリーズに託したのだろうか。
*写真提供:川村記念美術館