〈光州ビエンナーレ・釜山ビエンナーレ〉
世界の今をすぱっと輪切りにする「光州」、浮かび上がらせる「釜山」
文●石川健次 東京工芸大学芸術学部准教授
世界の今をすぱっと輪切りにする「光州」、浮かび上がらせる「釜山」
文●石川健次 東京工芸大学芸術学部准教授
韓国南西部の光州市で開かれている同国最大規模の国際美術展「第7回光州ビエンナーレ」と、同国南東端に位置する釜山市で開催されている同じく国際展の「第4回釜山ビエンナーレ」を見た。以下は、横浜トリエンナーレ(横浜市)や上海ビエンナーレ(中国・上海)、台北ビエンナーレ(台湾)などと並ぶアジアの代表的な国際展である両展の報告である。
■世界の今をありのままに、冷静に見つめる態度
光州市は、韓国・湖南(ホナム)地方最大の都市で、全羅南道(チョルラナム)の道庁所在地だ。韓国では何より、光州事件をはじめとする民主化運動の聖地として知られる。光州事件とは、1980年5月、この地で起きた学生や市民らによる民主化要求運動が軍によって制圧され、多数の死傷者が出た事件を言う。手元の辞書などによると、韓国では1979年の朴正熙(パク・チョンヒ)暗殺事件後、民主化運動の動きが高まっていたが、政権を握った全斗煥(チョン・ドファン)少将らを中心とする若手将軍グループは、戒厳令の全国拡大を宣布し、与野党の大物政治家を逮捕するなど民主化運動の動きに歯止めをかけようとした。光州事件は、まさにその真っ只中で起きた事件なのだ。
こうした背景があることもあって、光州ビエンナーレはその創設当初、テーマ設定などに人権への関心が強くうかがわれた。とりわけ最初の1、2回目の頃は、わざわざ(光州市内の)民主化運動ゆかりの場所に作品を展示するなど人権への関心、人権をめぐるメッセージ性を強く、濃厚に漂わせていたように思う。私自身、光州事件をはじめ、光州市や韓国の歴史に詳しかったわけでは毛頭ないが、ビエンナーレに訪れたことが縁でさまざまな歴史を知った。そういう人は他にも少なくないだろう。その意味でも「光州」の意義は大きかったと言えるかもしれない。
そうした関心は今も続いているとは思うが(事実、いずれの回にもそのような関心を示す作品は必ずと言っていいほど並んでいる)、当初ほど色濃い印象はなく、むしろ回を追うごとにさまざまなテーマへと多様な工夫を重ねてゆく姿勢が顕著に感じられる。しかも、そのテーマは、人権をはじめ、観客が創作の初期の段階から参加して、作家と一緒に作品をつくる?観客参加制度?の実施など、独自色の濃いことが少なくない。これまで、ほとんどの開催回を見ているが、その都度どんなテーマで開かれるのか、開催前から興味を抱いていた。
そして今回、やはり開催前から興味はうなぎのぼりだった。とはいえ、それはテーマに関する興味ではない。今回の光州ビエンナーレで芸術監督に選任されていた女性キュレーターの学歴詐称が判明し、選任を取り消される不祥事が起こったからである。新聞などでの報道によると、政府の有力者もまきこんだこの騒動は大スキャンダルに発展し、偽りの学歴という?偽証明書?がまかり通る韓国社会のいびつな現実や、キュレーターの資格などをめぐって議論が沸騰したようだ。学歴は真っ赤な嘘でも、美術界ではそれまで立派に活躍を続けていたのだから、実力は相応にあったのだろう(と想像する)。そこが、問題を複雑にしている要因でもあるようだ。確か、まさにその光州ビエンナーレの第2回か、第3回のとき、人づてに紹介され、立ち話だったが、私もその女性キュレーターと少し会話をしたことがある、多分……。多分とは、名刺が残っているわけでなく、そのときはそんな有名な人、正確には有名になる人だとは思ってもいなかったし、何しろ何年も前のことだから記憶もあいまいになってしまった。ただ、真っ白なスーツを美しく着こなし、いかにも都会的な女性だったように記憶している。ともあれ、そんなわけで、今回は例年にもまして興味津々に当地を訪れたという次第である。
後味の悪さを引きずる今回展を主導したのは、ナイジェリア出身でドクメンタ11(02年)のディレクターを務めた経験を持つオクイ・エンヴェゾーである。そのときのドクメンタは、私も見ている。アフリカ出身ということもあるのだろうか(もっとも、現在はニューヨークを拠点に活躍中だが……)、欧米偏重ではない、多文化主義を掲げたキュレーションが印象に残った。ドキュメンタリー色の濃いそのときのドクメンタは、地球規模で世界の今を視覚化するという関心、態度が強く感じられた。だが、初めてのドクメンタ訪問ということもあって、気分はかなり高揚してじっくり作品と向き合うという風にはなれなかった。そのせいだろう、今思い浮かべても、これといって強烈な作品の印象はない。スケボーのための設備をつくってサブカルチャーなどとの接近をうかがわせた二人組みや、向かい合わせのスクリーンにイスラム社会の現実をにじませたシリン・ネシャット、今や日本でも人気のアネット・メサジェのほかは、リュック・タイマンスの絵画がほとんど記憶を独占している。
むしろ、ドクメンタが開かれたカッセルの街は失業率が高く(当時)、失業中の若者がボランティアで数多くドクメンタのスタッフとして活躍していたことや、ちょうど日韓が共催してアジアで初めて開かれたワールドカップサッカーが開催中で、カッセルを訪れたまさにその日、日本はトルコに敗れ、トルコの国旗を掲げた若者が乗る乗用車がドクメンタ会場内を颯爽と駆け抜けていったことを鮮明に覚えている。ついでに言うと、カッセルにはトルコからの移住者が多いとも聞いた。なんだか横道にそれてしまったが、本来なら共同監督をするはずだったエンヴェゾーにしてみれば、とにもかくにもやりにくいことではあったろうと容易に想像できる。
そのエンヴェゾーは、今回の光州では「Annual Report(年次報告)」を掲げ、最近1年間に世界各地で開催された展覧会の再展示を中心に構成した。いつもと同様、ビエンナーレのためにつくられた特設の展示館をメーン会場に、すぐ近くの光州市立美術館などに世界36カ国から130人ほどの作家が参加した。開幕して数日後に訪れたが、観客はそれほど多くはなく、印象としては閑散とまでは言わないが、にぎわっているとか、話題の何かがふつふつと燃えたぎり、爆発しそうなエネルギーが会場に満ちあふれる……少なくともそんな活気づく雰囲気がなんとなくでも充満しているというふうには見えなかった。かといって、大スキャンダルの名残とおぼしき事柄も何一つなく、淡々と開かれているといった風情である。もちろん、そのときがたまたまそうだったのかもしれないのは言うまでもない。
光州ビエンナーレメイン会場
さて肝心の作品である。プエルトリコ在住のジェニファー・アローラ&ギレルモ・カルザディーラの〈堆積物、感傷〉は、石膏で作られた巨大な白い廃墟のような山から、オペラにも似た歌声が響く。アローラ&カルザディーラは、ヴェネツィア・ビエンナーレ(06年)で実物大のカバの上で新聞を読むパフォーマンス的立体作品(?)で一躍知られた作家だ。今回の出品作〈堆積物、感傷〉に近づいてよく見ると、所々に開いた穴の中で人が寝転んで歌っている。一つの穴には一人ずつ、複数の男女が勝手気ままに歌っている。誰も入っていない穴もあったから、一瞬入ってみようかとも思ったが、思いとどまった。言葉がうまく聞き取れない私には、歌声など何のことやらという感じだ。説明などを読むと、ダライ・ラマやジョージ・ブッシュ、サダム・フセインなどさまざまな人物の演説にリズムをつけ、歌っているらしい。なるほど、それら歌声ににじむのは、紆余曲折、波乱万丈の現代史というわけか。その上で眺めてみると、白い廃墟はフセインの墓標のようにも見えてくる。
ジェニファー・アローラ&ギレルモ・カルザディーラ 「堆積物、感傷」(部分)
韓国のパク・ジュヨンの〈通行人〉は、イスタンブール滞在中に記録した温度や湿度などを線グラフにして五線譜に重ね、それを楽器で演奏した音が響くほの暗い部屋の中で、イスタンブールのさまざまな風景映像がモニター上に流れる。めちゃくちゃな音符が奏でる音は、めちゃくちゃに決まっている。案の定、大きくなったり、高くなったり、時に不協和音にも似た響きを漂わせる。だが一方で、まぎれもなく自然が生み出し、奏でた、まるで等身大の音とでも言うように、映像との得難く、不可思議なハーモニーが現出したのは偶然だろうか。これも音楽の純粋性がなせる業か? 「まず何よりも音楽を」と言ったのは詩人のヴェルレーヌだったが、そんなあこがれがこの作家にもあって、挙句、強引に音楽へと導かせたのか? ミステリアスな体験は、“色物”とも言い切れない魅力、印象を残した。
田中功起(日本)の〈フィジカル・テスト〉は、食器や雑貨など身近な日用品が雑然と無数に並ぶ。見慣れたもの、どんな品か知ってはいても使ったことのないもの、用途すら不明なものなど雑多だ。さまざまな国、地域でこの1年間に開かれた展覧会には、それぞれの国、地域が抱える社会的、政治的、あるいは美術的にも多彩な問題、関心が反映する。多文化主義を念頭にすえるエンヴェゾーの面目躍如でもあるだろう。田中の作品に充満する雑多な印象、表情に、それら多彩な問題、関心がだぶって見える。会場にいた日本語が流暢な韓国人スタッフによれば、この田中の作品はとても人気が高いそうだ。なるほど見慣れた品々は、それだけでもとっつきやすいに違いない。親しみのある日用品は、自分の日常を振り返り、またそれまでに体験したさまざまな思い出に浸るきっかけともなるだろう。自分と過去、記憶とを結ぶ、さらに言えば自身と向き合う媒介とも映るかもしれない。
田中功起 「フィジカル・テスト」
統一的、求心的なテーマをうたう代わりに、世界の今をありのままに、冷静に見つめる態度が、今回は際立つ。不祥事の反動、あるいはその記憶を振り払い、平静を望むとでも言うのだろうか、過去の会場と比べても落ち着いた印象が漂うように見えるのも、そうした態度と無縁ではないだろう。
■映像やアニメに混じって絵画や彫刻が躍動する
「消費」をテーマに掲げる「釜山」も、世界の今をさまざまに描く。浪費や蕩尽はよくないことでも、生活に消費は欠かせない。文明の繁栄に消費は不可欠だ。簡単には割り切れない物事の両面、複雑な今を、テーマは暗示する。釜山市立美術館をメインに、リゾートビーチに立体作品が並ぶ「シーアートフェスティバル」、野外彫刻の「釜山彫刻プロジェクト」の3部構成である。釜山市立美術館に入ると、まず日本の人気アニメに取材した西尾康之の全長6mに及ぶ巨大な立体〈クラッシュ! セイラ・マス〉が目に飛び込む。「いきなりアニメか!」とは正直な感想だが、それこそ今をほうふつとさせ、また象徴もするものかもしれない。
釜山ビエンナーレメイン会場
西尾康之 「クラッシュ! セイラ・マス」
ディズニーやキティなどのイメージをしばしば援用するマーティン・サストレの〈KIM×LIZ〉は、映画好きで知られる金正日総書記と大女優のエリザベス・テーラーとの架空の恋物語をアニメで描いている。実際に金総書記がエリザベス・テーラーのファンであるのかどうかは知らない。現実がどうであれ、そういうストーリーだと聞いただけでも、すでに現実離れした、せいぜいファンタジーというか、夢物語を連想してしまう。なにしろアニメだし……。
内容は、おおむねこうだ。非核を条件に大国との交渉を成功させ、金総書記はついに恋を成就する。大女優を国に迎え、幸福な時間を過ごす。そんな幸福の絶頂で、金総書記は喜々として核のボタンを押す。笑うに笑えない内容だ。ウルグアイ出身の作家は、超大国が世界をリードする現実のなかで、しばしば傍観者として自らを設定する。地球の周縁から世界を冷静に、批評的に眺め、席巻するグローバルな力やイメージ、大国同士のかけひきや力学、さまざまに噴出する諸問題へも時に冷やかな視線を向ける。実は私がこの作品を見たまさにその日、金総書記が倒れたというニュースが世界を駆け回った。期せずしてタイムリーな作品になったというわけである。ある意味(現実離れなど……)、作品はばかばかしいが、そんな徹底したばかばかしさのなかに、不条理で不可思議な人間社会の、あるいは人間それ自身の影や闇を見るようで、案外無視できない作品だ。人間同士が戦ったり、傷つけあうのはいけないことだと誰もが知っているはずなのに、いっこうにそれはなくならない。実におろかで、ばかばかしいことなのに……。
映像作品〈独裁者を笑う〉で森村泰昌は、狂気の独裁者を演じている。その風貌から、ヒトラーやチャップリンの映画「独裁者」を下敷きにしていることは、一目瞭然だ。日本ですでに一つのスクリーンで上映するバージョンは発表済みだが、今回は二つのスクリーンが並置されているという点が新たな展開である。一方のスクリーンでは、件の独裁者がおどけた表情で汚い言葉やおちゃらけをとうとうと述べる。まさに狂った独裁者の性根に触れたといった印象だ。もう一方のスクリーンでは、まじめな顔をした独裁者ふうの男が、現代の狂気は表面上は善良に映るなど隠ぺいされた悪、悪意の存在を冷静に指摘し、見る側の不安を掻き立てる。ヒトラーやチャップリンのパロディを装いつつ、さまざまなところで見え隠れする現在の“独裁者”に言及する。そう、ここで言う“独裁者”とは、なにも国の指導者などとは限らない。たとえば昨今、日本を騒がしている食品偽装問題。次々に暴かれる偽装を主導していたのは、まさに独裁的な経営者ではなかったか。隠れた悪意は、善良な顔で世間を闊歩していたはずなのである。
山川冬樹の映像作品〈Hiroshoma,Japan,1988〉は、最初見たときにはついすぐに部屋を出てしまった。恥ずかしいことに、この作家の名をまったく知らなかったこともあるが、何しろ暗幕をめくって中に入ると、真っ暗なだけでスクリーンには映像が、というよりも文字が時折浮かび、あとはなにやらにぎやかな声が飛び交うだけ。いったい何が、そしてどんな作品なのか一目では理解できなかった。映像作品は時間芸術でもあるため、しばしば忍耐強く見ることを鑑賞者に要求する。絵画などそれこそ“一見”“秒殺”の芸術に慣れ親しんだ私のような目には、映像は厄介なものである。第一印象がよくないと、もうそれ以上見る気にはならないということがしばしばなのだ。
でも、思い直してもう一度暗幕をくぐったのがよかった。フジテレビのニュースキャスターとして活躍していた山川千秋さんの息子が、どうやらこの作家らしい。作品は、フジテレビで実際に放送された近年のニュース映像やテレビCMなどをまじえて、山川キャスターの公私を軸に展開する。具体的にいえば、ニュース原稿を読む山川さんの声、つまり“公”と、まだ小学生くらいの息子・冬樹と山川さんとの会話、つまり“私”が、時間の経過とともに淡々とつづられるのである。作品の主役は、ニュース原稿を読む山川さんの声であり、親子の会話だ。真っ暗な部屋の中で、時折、ニュースやCMの映像がスクリーンに映し出されるほかは、ほとんど声だけの作品である。入浴中の親子の対話など、ほほえましい場面をほうふつとさせる声が暗闇を行き交うのである。あまりに私的な作品とはいえ、記憶を喚起する声の強さを再認識もした。ニュースキャスターとしての山川さんの声は、私の記憶の中にもまだ残っている。その声を知っているかどうかで反応は天と地ほどの相違はあるだろう。けれども、記憶や歴史を媒介する声、素材としての声の可能性に思いをはせてみたくなる作品だ。
アニメはすっかり美術のメインストリートを闊歩し、映像はカッティングエッジ(最先端)を競う国際展の主流ともなった。今回の「釜山」も例外ではない。だが一方で、ロス・ブレックナーの錯視効果的な、あるいは花沢洋太の肉厚、骨太な絵画のほか、身体へ、人間へ際限のない関心を注ぐ加藤豪の彫刻など、清々しく新鮮な、時に戦後のアートシーンを垣間見るようにも映る絵画や彫刻が気勢をあげる。映像やアニメが国際展の顔になったとは言えても、絵画や彫刻が時代遅れ、あるいは時代の表現ではなくなったという指摘はあたらない。たとえば、昨今のアートフェアやオークションなどでの絵画の高騰は、枯れることのない絵画の魅力、可能性を改めて示した。乱暴を承知で言えば、映像やアニメに混じって絵画や彫刻が躍動する「釜山」は、形式的な新旧対決、新旧共存と言える様相を呈し、それゆえに美術の今をより立体的、俯瞰的に映し出している、あるいは映し出そうと意図しているとも言えるだろう。
花沢洋太 「森」
さて、メイン展示から目を転じて、リゾート海岸を舞台にする「シーアートプロジェクト」に移ろう。一言で言うと、無難な立体作品が並んでいて、相応に楽しめた。浜の端から端まで、正確な距離は分からないが、私が時折散歩する湘南の逗子海岸よりは長い浜辺に、20点ほどの立体作品が点在する。たとえばサイトスペシフィック(その場固有)な印象は希薄というか、むしろ微塵もないが、祝祭的な意味合いも込められた試みでは、会場が屋内から屋外へ飛び出たくらいに軽く考えてもいいだろう。風光明媚な海岸、大掛かりな自然の造形美に立ち向かうには、その大きさ一つとっても生半可なことでは鑑賞者の目を楽しませることはおぼつかない。個々の作品に突出した印象は残らなかったものの、取るに足らないというふうでもない。いわば、どれも平均点以上、言い換えれば足並みがそろっている、粒がそろっているという点で、こうした野外の彫刻展としては及第、もっと言えば稀有と言ってもいいかもしれない。まだ十分に時間はあると踏んで夕方前に出かけていったが、見終わったときにはすでに当たりはほとんど闇の中だった。海岸沿いにひしめき合うリゾートホテルやレストランのネオンが、隠微な光で浜を照らし始めていた。前の晩に食べた焼肉を思い浮かべながら、今夜はシーフードにしようなどと考えた。後から聞いたら、同行者もそんなふうに考えていたらしい。海岸をゆっくり見て回る、そんな適度な運動が、そんな思いを、健康的な連想を誘ったのだとしたら、それもプロジェクトの効用だろう。
シーアートプロジェクト展示風景
40カ国近い国々が参加する「光州」が、瞬間を切り取るように世界の今をすぱっと輪切りにする瞬間風速的な展示だとすれば、20カ国余りが参加した「釜山」は、比較的緩やかなスパンで、いっそう多様な技法、表現と対比させつつ今を浮かび上がらせる試みと言っていいだろうか。規模や内容で「光州」の後塵を拝した感のあった「釜山」だが、その質量とも肩を並べる、遜色のない内容に映ったことも特筆しておきたい。
なお「光州」は2008年11月9日まで、「釜山」は同15日までの開催。
*写真撮影はすべて石川健次