横浜トリエンナーレ2008
キーワードは“身体”“行為”
文●松浦良介 Ryosuke Matsuura 「てんぴょう」編集長
キーワードは“身体”“行為”
文●松浦良介 Ryosuke Matsuura 「てんぴょう」編集長
2001年“メガ・ウェイヴ――新たな統合に向けて”、2005年“アートサーカス(日常からの跳躍)”、第3回目となる今回のテーマは“タイムクレヴァス(ときの裂け目)”。水沢勉(神奈川県立近代美術館企画課長)総合ディレクターとダニエル・バーンバウム(シュテーデル造形美術大学学長)、フー・ファン(アーティスティック・ディレクター)、三宅暁子(現代美術センターCCA北九州プログラム・ディレクター)、ハンス・ウルリッヒ・オブリスト(サーペンタイン・ギャラリーディレクター)、ベアトリクス・ルフ(クンストハレ・チューリッヒディレクター)という5人のキュレーターによって、国内及び世界各地から約70人の美術家が選ばれ、出品した。
私が見てまわったのは、内覧会の日。約半日かけたが、三渓園は見れなかった。また、映像作品すべてを最初から最後までは見てないので、個々の作品についてではなく、今回のテーマに関して述べてみたい。
■近代を乗り越えるための「覗き込み」と「下降」
第1回目は、まさに初回らしいというべきか、豪華な幕の内弁当のようだった。作品は表現方法、サイズなど多種多様であり、美術家もベテランから若手までといった顔ぶれ。第2回目は、準備期間の短さをうまく利用して、開催中も展示は進行する、といった川俣正氏らしい内容であった。ただ、第1回目のようなオーソドックナなものではなかったため、呆気にとられた人も多かったかもしれない。
そして今回は、ユダヤの詩人パウル・ツェランの詩集『息の折り返し』に収載されている詩篇の中の「時間のクレヴァスのなかで」「息のクリスタル」が「待っている」という言葉から生まれた、“タイムクレヴァス(ときの裂け目)”。
具体的には、現在を「近代というプロジェクトが辿りついた一つの果て」(“タイムクレヴァスへ”水沢勉 ガイドブックより)とし、「その限界を乗り越えるためには、まずはそこに生じている時空間のクレヴァスを覗き込まなければなりません」(前同)としている。
その“クレヴァス”は何かというと、地球規模化(グローバリゼーション)と同時に生まれ、さらに進行している格差、ということ。さらに、時間は複数の系で流れており、それらが捩れ、渦巻き、ぶつかり合うことで、予想もしてない亀裂を生じさせるとも水沢氏は述べている。
では、なぜそれがトリエンナーレのテーマになったかというと、「アートに潜む力は、まず、その深淵を直視し、勇気をもって『タイムクレヴァス』へと下降することによって、個々人、社会、国家、性(ジェンダー)、世代、人種、宗教といった相互の差異を、現在の自分自身が置かれている状況を踏まえて、徹底して感じ取ることを促さずにはおかない性格のもの」(前同)という文章が理由となるだろう。
これを実感するには、桜木町駅からすぐのランドマークプラザに展示されている、マイケル・エルムグリーン&インガー・ドラッグセット〈Catch me should I fall〉から見てまわるのがいいかもしれない。
水のはられたプールに飛び込む寸前の少年。その表情はまさに“クレヴァス”を覗き込み、さらに“下降”することへの怯え、もしくは期待を思わせるものだからだ。
高さも絶妙なのこの作品には、トリエンナーレ出品作でないことを知らない人々も多く見入っており、携帯等で撮影をしていた。
マイケル・エルムグリーン&インガー・ドラッグセット〈Catch me should I fall〉(正面からの全体図と、部分)
■流行ではなく美術史につなげる
メイン会場は3つ。まずは、新港ピア。基本的には作家ごとに白い壁で区切っており、ホワイトキューブとまでいかないが、通常の展示といえよう。ここでは、インスタレーションと映像作品がメイン。海が見える辺りには、森アーツセンターミュージアムショップ、カフェもある。
マイク・ケリー〈キャンドルライティング・セレモニー〉が目をひくが、個人的には、ケリス・ウィン・エヴァンスの作品が面白かった。丸いステンレスの板が何枚も吊るされているだけの部屋なのだが、その板に近づけばなにやら音が聞こえてくるというもの。広い会場、大振りな作品がどうしても多くなるこういった展覧会では、案外こういった地味な作品が記憶に残る。
ケリス・ウィン・エヴァンスの作品
2つ目は、日本郵船海岸通倉庫。ここも、映像とインスタレーション作品が中心。アブラモビッチ、マシュー・バーニー、オノ・ヨーコなど現代美術の有名どこがならぶ。
会場1階には、白いカーテンで入り口を閉ざされ、過激な表現であるとの注意書きがあるヘルマン・ニッチュの部屋が、いきなり出迎える。
過激なパフォーマンスで常に物議をかもし、投獄経験もあるこの美術家も70歳というベテランになっている。今回も、殺された羊や牛の死体、さらにはその血、内臓を参加者に飲ませたりする儀式とも言えるパフォーマンスの様子が幾つものモニターで流さていた。また、その最中に用いられた十字架や容器、衣服なども展示されていた。
部屋に入ってしばらくは、その血みどろかつどこか祭を思わせるダンスと音楽の映像に注目してしまうのだが、すぐに染みだらけの衣服など展示されているものの方の存在感を大きく感じるようになる。映像インスタレーションでは、映像が主役であることがほとんどだが、ここでは映像が脇役となっている。
ヘルマン・ニッチュの作品から
3階には中西夏之。近年では絵画作品が多かったが、今回は絵画が出来上がる現場が作品になったようであった。1960?1970年代に得た経験が、為しえた現場だったといえよう。
中西夏之作品の展示風景
3つ目は、横浜赤レンガ倉庫1号館。ここでは、2階の映像資料展示において〈身体の芸術、行為の芸術 戦後日本「前衛の時代」のパフォーマンス/ハプニング〉が注目を集めるかもしれない。
土方巽、具体美術協会、フルクサス、ハイレッド・センターなどのパフォーマンスの記録映像が流されてるのだが、個別には多々紹介されているが、これらをまとめて見るいい機会になる。また、同コーナーの存在が、前衛が展開した行為と身体の表現が、トリエンナーレに出品されてるような現代の表現につながってるのだ、というに思わせてくれる。インスタレーションでなく、1つのモニターで見せている映像作品もこのようにまとめて見せてもらえるといいのだが……とふと思った。
ちなみに今回は、全体においてパフォーマンスに重点が置かれている。「時間を最も鋭敏に感じ取る受容器である身体にとっての、時間の亀裂=傷が問われているからにほかになりません」(前同)とその理由が述べられている。
■世界に存在感を示すために
普段美術展など見ない人には、このような展覧会を見ること自体が“クレヴァス”を覗き込むことかもしれない。それを考えると、前述したグローバリゼーションにおける格差や差異といったものを、もっと直接的に訴える作品が多くあったほうがよかったかもしれない。
レセプション会場入り口では、大巻伸嗣のシャボン玉が無数に乱れ飛ぶ作品〈Memorial Rebirth〉が出迎えた。同作品は、10月11日まで新港ピアで1日2回行われる。
無数のシャボン玉が飛んだ大巻伸嗣作品
そこでの横浜市長中田宏さんの挨拶において、黄金町バザール(9月11日?11月30日)について触れていた。アートが地域と共存することで、町並みが変わっていくのは素晴らしいことである、と。また、市長は3月18日の定例会見において「アートだとか芸術だとか言われると、私は非常に敷居が高かったのですが、前回のトリエンナーレに行ってみたら、なるほどなと、このような表現があるのだとか、それからアーティストが自分のメッセージを送るのではなくて、一緒に作ってくれという、手を加えてくれというものがあったりとか、さらに申し上げれば、用意されていたものが、こちらからすれば全部、遊びの対象になるというものがあったりしました。そこが現代アートの面白さで、ある種の垣根とか決まりごととか、そういったものがない表現の仕方なのです。非常に面白かったです。アートを楽しんでいるというよりは、何か面白いアミューズメントパークに来たという感じでした」(横浜市ホームページより)とも述べている。
これは、美術が作品として成立するよりも、社会に積極的に役立つことが求められてると思える。そういった点で今回は、作品は鑑賞するものがほとんどであり、中田市長に限らず多少物足りなく思われるかもしれない。また、“クレヴァス”を覗き込むことは、穏やかな感動も生むかもしれないが、同時に違和感や恐怖感も生む。
美術に限らず、作品というものは一見平静な見る者の日常にさざ波を起こし、時には津波もおこすものである。社会に役立つことと、そのことがどこか相反してしまう。
全体を通して、“身体”“行為”といったキーワードで、前衛から現代美術をオーソドックスに見てまわった気分であった。次回は、第二回目のように参加型になるのか、それともよりオーソドックスになっていくのか。はたまた街おこしのようになるのか?? 世界では、ビエンナーレ、トリエンナーレが多数開催されている現在、存在感を示す為にさらに検討が必要となるだろう。
*作品撮影はすべて筆者