<会期> 2025年6月28日(土)- 7月20日(日)
<会場> MORI YU GALLERY
<営業時間> 12:00-18:00 月火祝休
MORI YU GALLERYは6月28日(土) – 7月20日(日)まで、秋山珠里、世良剛、寺村利規、浜崎亮太の四作家による「どれほど近くとも遠い現れ」を開催いたします。
展覧会タイトルは、二十世紀前半のドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミンの芸術論で説かれている「アウラ(aura)」という概念を参照しています。ベンヤミンによればアウラは、写真・映画といった視覚的な複製技術の誕生・普及によって、芸術から失われていくものとされています。ベンヤミンが『複製技術時代の芸術』においてアウラを定義した一文にはこうあります。
「アウラの定義は、時間と空間とが独特に縫れ合ってひとつになったものであって、どんなに近くにあっても遠い一回限りの現象である。」
日本では禅の「即今当所」や茶道の「一座一会」「一期一会」、また「いま、ここ」といった言葉が身近にあるためなのか、アウラについて「一回限りの現象」という部分に焦点が当てられる傾向があるように思われます。
しかし考えてみれば「いま、ここ」以外の時間も空間も私たちにとってはありはしないのですから、一回性はその質が軽くとも重くとも、それを認識する者が存在し続ける限り、常に在り続けると言えるでしょう。
ベンヤミンは演劇におけるブレヒトの時代に、ピエル・パオロ・パゾリー二やロラン・バルトが「ポエジーとしての映画」や「鈍い意味(プンクトゥム)」と呼ぶような、新たなアウラとも言うべき現象が、映画・写真のなかに現れるとは想像し得なかったのでしょう。
しかしながら実際、写真には写真の、映画には映画の、あるいは際限なく複製される電子データにも、それぞれ一回性があり、一回性のない現象を探す事は厳密には不可能でしょう。
そうした観点からは、あらゆるメディウムについて一回性を否定することはできません。したがってアウラにおいて考察されるべきは、むしろ「どんなに近くにあっても遠い」ということ、そこにこそ芸術におけるアウラが何に関与してきたのかという重要な点が示されているのではないでしょうか。
「作品から得体の知れない受け取り用のない遠い何かを、受け取ってしまうという近さ」
「作品から神の様な遠い何かを感じるという近さが持つ、崇高さ」
例えばそれはこんな風に言う事が出来るのかもしれません。
ただしそれは万人が同様に感じたり、受け取ったりできるものではなく、ある瞬間に、ある状況において、ある特定の存在だけにその瞬間が訪れます。
そして、そうした作品と観察者の特異な邂逅こそが、一回性をより強く感じさせるのではないでしょうか。
かつてアウラは宗教的な啓示や超越的な霊性とともにあり、近代はそれを論理や唯物性、現実的な因果性によって超克しようとしてきました。しかし、ベンヤミンの言うようにアウラが凋落し喪失している現代において、新たなアウラ性の現れを見出すことはできるのでしょうか。この四作家による展示は、そうした探求の試みであると言えるでしょう。
どうぞ御高覧ください。
MORI YU GALLERY (モリユウギャラリー)
http://www.moriyu-gallery.com
京都府京都市左京区聖護院蓮華蔵町4-19
tel:075-950-5230