EXHIBITION | KYOTO
米村竜光(Ryuko Yonemura)
「TEKU・MAKU・MAYAKON」
<会期> 2026年8月22日(土)- 9月13日(日)
<会場> MORI YU GALLERY
<営業時間> 12:00-18:00 月火祝休
MORI YU GALLERYは8月22日(土) – 9月13日(日)まで、米村竜光「TEKU · MAKU · MAYAKON」を開催いたします。弊廊では初個展となります。ぜひご高覧ください。
「テクマクマヤコン」--天才・赤塚不二夫が生み出した『ひみつのアッコちゃん』におけるこの変身の呪文は、単なる少女漫画のファンタジーにとどまらず、他社を経由して自らが変わっていく「静かな変身」の本質を物語っている。米村竜光の造形と思考の起点には、幼少期のごっこ遊びの記憶が存在する。既存の物語の中に自分だけの居場所を作るため、自分だけの仮面や小道具といった「世界と接続するための器」を自ら制作し、友人たちと共有する世界の中へ持ち込んでいた原体験。それは、自身が影響を受けてきた映画やアニメといった「現代の神話」を経由し、現在の作陶の実践へとまっすぐに繋がっている。米村は「写しは過去の身体を辿り、能面は身体を器へ変換し、仮面は自分自身を物語へ接続する」と語る。能面が演者の個人としての輪郭を後退させ、神仏や異物をその身に宿す「身体を器へと変換する装置」であるように、彼は茶碗という物質的な道具にとどまっていた器概念を、物語や信仰、他者そのものを受け入れる関係性の構造へと大きく拡張してみせるのだ。
この個人のパーソナルな身体感覚に基づくアプローチは、日本の現代陶芸が直面してきた大きな歴史的・構造的課題を解体する批評性へと直結している。
日本の現代陶芸は、西洋美術史やモダニズムを「普遍的な基準」とする構造の中で、長らく劣等感や周回遅れ感というコンプレックスを抱え続けてきた。戦後、走泥社の八木一夫らが実用性を捨てた《ザムザ氏の散歩》などの「オブジェ焼」を生み出した際にも、常に「クレーやミロなどの西洋モダンアートや抽象彫刻の模倣、二番煎じではないか」という自他双方からの疑念が付きまとった歴史がそれを象徴している。
美術批評家の北澤憲昭らが分析したように、明治期に西洋から「Fine Art(美術)」という概念を導入した際、Craft(工芸)」がその下位分類(応用美術)として置かれて以来、日本の陶芸は西洋由来の批評言語を参照軸にせざるを得ない構造的ジレンマを抱えてきた。どれほど先進的な造形を試みても「西洋現代美術の後追い」とみなされてしまうこの歪んだ評価システムに対し、米村は西洋理論の単純な追従ではなく、「写し」「見立て」「器」といった日本固有の美学と身体性を深く読み直すことで、構造自体の克服と相対化を試みている。
彼にとっての「写し」とは単なる形態のコピーではない。それは本歌を丁寧になぞりながら、かつての作り手がどのような選択や判断、迷いや速度で土に向き合ったのかを、現在の自らの身体を通して追体験する高度な解釈の行為なのである。
さらに、美学者の谷川渥が指摘した茶陶における「自然らしさ(侘び寂びや綺麗さび)」が実際には高度に計算された人為の演出(シミュラークル)であるのと同様に、陶芸とは作家の意図的な作為と、窯の中の不可逆な物理変化という制御不能性が高度に交差する領域であり、現代における「演出された自然」を問い直す強力な批評装置となり得る。また米村は、哲学者アンリ・ベルクソンの『物質と記憶』における「過去の全経験は意識の底たる純粋記憶に保存されており、現在の身体や知覚が必要とした瞬間、身体の運動と結びついてイマージュ(像)として立ち現れる」という構造を正確に理解し、それを作陶の実践へと落とし込んでいる。土を揉み、押し潰し、裂き、繋ぎ直すという無数の「現在の身体運動」を通じ、自らの意識の深層にある記憶やイマージュを手繰り寄せ、そのまま土という物質へと物理的に焼き付けているのだ。理論を単なる頭上の概念として弄ぶのではなく、手仕事という徹底的な身体運動を通して哲学の回路を物質化する点に、彼の表現者としての強靭なリアリティが存在する。
本展で発表される新作《Self Portrait Vessel》は、特定の個人像を描いたものではなく、古今東西の多様な他者を自らの身体に受け入れ、揉まれることで現れる「変容する身体の記録」である。赤塚不二夫の描いた変身願望や泥臭いごっこ遊びという極めて個人的なリアリティから出発し、西洋現代美術の批評理論や重厚な哲学を丸呑みにした上で確固たる造形へと昇華させたそのプロセスは、伝統と現代、西洋と日本、身近なポップカルチャーと高尚な美術批評といったあらゆる二項対立を静かに飛び越えていく。それは、他者を自らの身体に受け入れ、揉まれながら自分自身が変わっていく「地味な変身」の姿であり、確固たる身体性をもって新たな陶表現の可能性を鮮やかに提示する切実な思考と造形の軌跡である。
「TEKU · MAKU · MAYAKON」
高度情報化社会などと名付けられた現代において、あえて手仕事によって質量を持つ素材と向き合い、そこから世界を見るという工芸的な世界像に立つ。すると自分はなんて幸運な選択をしたのだろうと思う。様々な成り行きはあれど、陶を素材として扱うようになったことは、今となってはある種の必然を感じている。
私にとって素材は、物質である以前に、その周囲に積み重なってきた言葉や文化、身体の記憶、制度や価値観でもある。
侘び寂び、器、見立て、写し そうした日本美術固有の概念も、それぞれが独自の世界認識と素材性を含んでいる。陶は、縄文時代から数えて一万五〇〇〇年のなかで、それらの概念が複雑に交差しながら現在まで受け継がれてきた、稀有で豊かな領域の一つであるからだ。
なかでも「器」という言葉には、不思議な広がりがある。器とは本来、何かを受け入れるための道具。しかし日本では人の度量を「器」と呼び、その資質を「器量」と表すように、この言葉は物だけでなく、人そのものをも指してきた。一つの言葉が、物と人格のあいだを自然に往復する。
この感覚は、日本語だけに見られる比喩ではないように思う。日本の芸能や祭祀では、人間の身体は神仏や死者といった他なる存在が現れる場所として理解されてきた。面を掛けることは、別人を演じるための技術というより、自らをいったん退き、他者を迎え入れる身体になることでもある。縄文時代の土面から神楽面、そして能面へと続く仮面の歴史を眺めても、その構造は繰り返し現れている。
面は、人間の身体を他なる存在のための器として開く装置なのかもしれない。
そう考えると、「器」は物の形を示す言葉ではなく、何かを受け入れる関係のあり方を示す言葉として理解できる。茶碗は茶を受け、身体は神を受ける。異なる文化や制度に属していながら、両者は「受け入れる」という一つの構造を共有している。
陶という素材は、土から器にも、仮面にも、人の像にもなる。用途によって分類される以前に、土そのものが「受け入れる構造」を、さまざまなかたちへと変化させてくれる。
そういった形を持たず概念としか言いようのないものや、文化として心身に溶け込み、境界を失ってしまったものに、形や色を与えることが私の制作なのだと思う。
新作《Self Portrait Vessel》は自画像と名付けてはいるが、私自身の肖像ではない。
影響を受けてきた芸術家やコメディアン、キャラクター、歴史上の人物たちの肖像を起点としている。しかし土を握り、押し潰し、裂き、繋ぎ直す。土と身体の反復のなかで、肖像は次第に私の身体性へと引き寄せられ、溶け出し、やがて輪郭も失って、最後に残る顔はもはやその誰でもない像へと変わっていた。
そこに残るのは憧れた誰かでも、私自身でもない。さまざまな他者を通り抜けた身体だけがそこにあった。
かつて人は神仏や祖先を身体へ迎え入れ、その存在を仮面によって現していた。現代ではその感覚は身近ではなくなったかもしれない。しかし私たちは今もなお、現代では「推し」とも呼ばれるような憧れの誰かの言葉や身振りに触れ、その影響を受けながら生きている。迎え入れる対象は変わっても自らを開き、他者を受け入れながら変化していくという身体の構造そのものは、今も失われてはいない。
アンリ・ベルクソンは『物質と記憶』において、過去の経験は純粋記憶として保存され続けており、現在の身体や知覚がそれを必要とする瞬間、知覚と結びついて「記憶イマージュ」として現れると考えた。
制作を続けていると、この感覚を何度も経験する。手は誰かの顔を再現しているつもりでも、土に触れ続けるうちに、過去に受け取った身振りや記憶は現在の身体によって編集され、別の像として現れ直してくる。
Self Portrait Vesselは、自分を表す像ではない。他者を受け入れ、変化し続ける身体そのものを記録するための器である。
縄文の土面から能面、そして現代へ。土から顔をつくるという行為は、迎え入れる対象を変えながらも、「器」としての身体という感覚を、途切れることなく受け継いできた営みなのかもしれない。
そんなことを考え続けるなかで、ある日ふと、『ひみつのアッコちゃん』の「テクマクマヤコン」という言葉を思い出した。幼い頃には意味のない音の連なりとして耳に残っていたその言葉は、今では少し違って聞こえてくる。
自分を捨てて別の誰かになるための呪文ではない。他者を受け入れながら自分自身がいつのまにか変わっていく、派手な演出もない、ずっとずっと地味な変身の呪文。
私にとってのテクマクマヤコン。
米村 竜光
MORI YU GALLERY (モリユウギャラリー)
http://www.moriyu-gallery.com
京都府京都市左京区聖護院蓮華蔵町4-19
tel:075-950-5230
