EXHIBITION | KYOTO
瀧健太郎(Kentaro Taki), 河合政之(Masayuki Kawai), 浜崎亮太(Ryota Hamasaki), 西山修平(Shuhei Nishiyama), 韓成南(Sung Nam Han)
「VIDEOS – Critical Dreams -」
<会期> 2015年8月22日(土)- 9月20日(日)
<会場> MORI YU GALLERY
<営業時間> 12:00-19:00 月火祝休
MORI YU GALLERYでは8月22日(土)から9月20日(日)まで、
京都では初となる、
Critical Dreams – 危機/批判の夢
もの派にとって〈もの〉が、単なるマテリアルでも道具でもないとするならば、同様に本展の作家たち-VIDEOs-にとってVIDEOは、単なるマテリアルでもなければ道具でもない。そもそもすべてのアーティストが、いやすべての人が「物」を使っている。しかしもの派というとき、それは〈もの〉と向き合い、〈もの〉に取り憑かれ、世界自体を〈もの〉であるとみなすようなアーティストのことだといえるだろう。同じように、VIDEOsにとってVIDEOとは、世界のあり方そのものなのであり、またあらゆる出来事、生の中心であるのにほかならない。だからこそVIDEOがそのまま、アートのコンセプトたり得るのだ。
今や「ビデオ」すなわち電子の映像は、あらゆる時と場所に偏在し、あらゆる人が使うものとなった。一般化され日常化された「ビデオ」は、意識されることなく、私たちを消費の世界に呪縛するマテリアルであり、道具である。そうした安易さは、アートの世界においても、消費者的に「ビデオ」を用いる多くの作品や場面として、顕著にあらわれている。
しかしVIDEOsにとってのVIDEOとは、単なる視聴覚的な消費の装置のことではなく、見るということが、そのまま世界や自らを知るということであるような見方を意味する。VIDEOとは再帰=反省的な視=知なのである。
原発が爆発し、経済が凋落し、政治が世界から孤立しつつあるこの日本で、人々はただひたすらにスマホを見つめ、「ビデオ」に興じている。「ビデオ」の与える消費の自由に支配され、そこから逃れられないこの状況。それは自らが瀕している危機に目をつむり、メディア消費の夢を見続ける世界である。
だが、そのような盲目的な夢という状況を、VIDEOというコンセプトを通して見るならば、そこにもうひとつの可能性があらわれてくる。それは、その夢自体を、再帰=反省的な、批判的な視=知の場所とするということである。「ビデオ」ではないVIDEOの夢は、夢であればこそ、その夢自体を再帰=反省的な思考の回路へと変容させる。そして世界を批判する思考が、ひとつの積極的な、見る=知る欲望として動き出すのである。こうして、単なる消費としての「ビデオ」とは異なる、明確なコンセプチュアル・アートとしてのVIDEOが生み出される。
VIDEOの美学は、機器から目を逸らさず、アイロニーに逃避もしない。それは危機自体を変化の前触れととらえ、そこに世界のダイナミズムを見出すだろう。それは、メディア消費の夢の中で閉じこもり、窒息する日本の状況の、まさに反映=リフレクションである。VIDEOという電子の視=知を通して、危機の夢は批判の夢となる。こうしてVIDEOは、メディア消費による奴隷化された世界が、視聴覚的な思考によって乗り越えられる場所となるのだ。
MORI YU GALLERY (モリユウギャラリー)
http://www.moriyu-gallery.com
京都府京都市左京区聖護院蓮華蔵町4-19
tel:075-950-5230